![[韓国画家キム・ヒョンジョンの肖像⑮] 走らない馬が教えてくれること](https://coconutnews.jp/wp-content/uploads/2026/05/news-image-1779414512787.jpg)
急激に暑くなった天気は、人をすぐに疲れさせる。心はまだ春に留まっているのに、体は先に夏を通り抜けていく。季節はますます早まり、都市は暑さの中でも止まらない。人々はエアコンのリモコンを探し、冷たい飲み物を手にし、冷房の効いた空間へと移動する。ところが不思議なことに、夏を思い浮かべる時、心に先に残るのは冷たい機械よりも、古びた扇風機と大きく割ったスイカだ。ガタガタと回っていた風、スイカの汁が指先についた午後、何もしなくても大丈夫だった緩やかな時間。この絵は、その記憶から始まった。
画面の中には、韓服を着た「内緒女(ネスンニョ)」と茶色のポニーが並んでいる。緑色の扇風機は二つの存在に向かって風を送り、床にはよく熟したスイカが置かれている。内緒女はスイカを一切れ手に持ち、ポニーもスイカを食べている。横には干し草をいっぱいに積んだ荷車がある。馬の空間と人の夏が、一つの画面の中で自然に重なり合う。走らなければならない馬は止まっており、忙しく生きなければならない人も、しばし座り込んでいる。
この作品を描きながら、最も長く心に残ったのは、馬がスイカを食べる姿だった。10kgのスイカ一玉が、あっという間になくなった。その光景は滑稽でもあり、不思議でもあった。人だけが暑さを感じるのではなく、人だけが甘いものを好むわけでもなかった。馬も暑く、馬も喉が渇き、馬も涼しいものを求めて首を伸ばす。その瞬間、馬は「乗るための動物」ではなく、共に夏を耐え抜く存在として近づいてきた。
だから、この絵の中で馬は走らない。勝つこともなく、競争することもない。ただ扇風機の前でスイカを食べるだけだ。この単純な光景がむしろ見慣れないものに感じられるなら、それは私たちが馬だけでなく人に対しても、あまりに頻繁に「走る役割」ばかりを課してきたからだろう。馬は速く走らなければならず、人は成果を出さなければならない。馬は管理されるべき存在であり、人は自らを管理しなければならない。体は疲れているのに、社会は絶えずコンディションを要求する。
扇風機は、この場面の情緒を捉える重要なアイテムだ。絵の中の扇風機は、実際に長く愛用していた古い緑色の扇風機から着想を得た。最近の冷房機器のように完璧に温度を下げてはくれないが、扇風機には夏の時間が残っている。回転する風、ガタガタという音、スイカの皮が積み重なった午後、時折まぶたを閉じさせる緩やかな瞬間。エアコンが暑さを消し去る装置なら、扇風機は暑さを共に耐え忍ぶ装置に近い。
スイカも同じだ。スイカは一人で食べるより、分かち合う時により鮮明になる食べ物だ。包丁で大きく切り、皿に盛り、一口ずつ頬張る間、人々はしばし同じ季節の中に留まる。『サマー(馬)タイム』において、スイカは人と馬の間に置かれた小さな食卓だ。種が異なり言葉が通じなくても、暑さと甘さは分かち合うことができる。この絵において「家族(食口)」とは、血縁や家族制度だけを意味しない。同じ風を受け、同じ季節を耐え抜き、何かを分け合って食べる間柄こそが、家族になり得るのだ。
韓服を着た内緒女の姿は、この場面をより一層妙なものにしている。赤いチョゴリと半透明のチマ(スカート)は伝統の端正さを秘めているが、その姿勢は格式とは程遠い。内緒女は馬の横に座ってスイカを食べている。韓国画の材料である韓紙と水墨淡彩、コラージュで表現されたチマの透明な質感は、風と暑さ、肌の感覚をほのかに浮かび上がらせる。伝統衣装と古い扇風機、スイカとポニーが一つの画面の中で出会い、この場面は過去の風俗画ではなく、今の時代の夏の風景となる。
しかし、この平和な光景の中には小さな批判が隠されている。私たちはあまりに長い間、休むことを些細なこととして扱ってきた。休息は「より良く働くための充電」としてのみ説明され、何もしない時間は浪費のように扱われる。暑さを冷やすことさえ、生産性のための自己管理にすり替えられる。十分に休んだかどうかではなく、休んだ後にどれだけ効率的に動けるかが重要視される。この社会は、体の疲労よりも結果の速度を先に問うのだ。
その点で、扇風機の前で馬とスイカを分け合うこの場面は、単なる避暑ではない。走らなくてもいい時間、有用性を証明しなくてもいい体、成果とは無関係に存在する喜びを描きたかった。馬が走らない時も馬であるように、人も成果を出さない時も依然として人である。それなのに、なぜ私たちは休む瞬間でさえ自分を説明しなければならないのか。なぜ「立ち止まること」が「遅れをとること」と誤解されるのか。
『サマー(馬)タイム』というタイトルは、夏を意味する「Summer」と、馬の「馬」を掛け合わせた言葉遊びから始まった。しかし、その中にはより長く残る問いがある。私たちはいつから、走る存在だけが価値があると信じるようになったのか。休む時間は人生の空白なのだろうか。馬と人が同じ風を受けるこの光景は、その問いの前に私たちをしばし立たせる。
暑い日、扇風機の風の前でスイカを分け合う時間は短い。スイカの一切れはすぐになくなり、風は十分には涼しくないかもしれない。それでも、その瞬間だけは人と馬が同じ速度で息をしている。もしかすると人生で最も必要な休息は、完璧な冷房や長い休暇ではなく、そばにいる存在と同じ風を受ける時間なのかもしれない。
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忙しい日常の中で「走らなくてもいい」という言葉が、何よりも温かい慰めとして心に響きました。たまには立ち止まって、隣にいる大切な誰かと一緒に涼しい風を感じる時間を大切にしたいですね。皆さんも今日は少しだけ肩の力を抜いて、自分を労わる時間を過ごしてみてはいかがでしょうか。

