
記憶が薄れるほど、大切だった瞬間はより鮮明になる。
『ネイチャー・オブ・フォゲッティング』は、若年性認知症を患うトムが過去の記憶と向き合う過程を描いた作品です。55歳の誕生日を迎えたトムは、娘のソフィーが選んでくれたジャケットの代わりに、古い制服のジャケットを手に取ります。これをきっかけに、トムは家族や友人、そして愛するイザベラと共に過ごした瞬間を一つずつ思い起こすことになります。

英国オリジナルプロダクションであるシアター・リー(Theatre Re)の代表作である本作は、フィジカルシアターというジャンルの作品で、俳優たちの身体表現を中心に物語を伝えます。29日午後8時の公演では、トム役のペク・ソンヒョン、ソフィー・イザベラ役のキム・ジュヨン、マイク役のクァク・ダイン、エマ役のカン・ウンナが舞台に上がりました。
劇の始まりから目を引くのは、俳優たちの動きで表現される記憶の流れです。人物の感情や状況を具体的に説明する台詞の代わりに、表情や身振り、呼吸で物語を紡いでいきます。繰り返される動作や俳優たちの動きは、記憶が鮮明に繋がっていたかと思えば、突然混ざり合ってしまう過程を表現しています。慣れ親しんだ場面が一瞬にして混乱に陥り、トムが経験する変化を観客も共に目の当たりにすることになります。
舞台上の小道具の活用も印象的です。服がぎっしりと掛けられたハンガーはトムの記憶を引き出す媒介となり、机と椅子は教室や結婚式場など、様々な空間の小道具へと姿を変えます。俳優たちが自ら小道具を動かし、衣装を着替える過程までもが劇の一部となり、舞台は絶えず新しい場面を作り出していきます。特に、古い制服のジャケット一つが過去の記憶を呼び起こすという設定は、馴染み深い物に込められた記憶の力を示しています。

俳優たちの動きと連動するライブ音楽も、劇への没入感を高めます。音楽は単なる背景にとどまらず、場面の雰囲気や人物の感情を導く役割を果たします。穏やかに流れていた音は場面に応じて強烈に変化し、俳優たちの動きと噛み合いながら、トムの混乱した内面を表現します。俳優たちの身振りと音楽が有機的に繋がり、台詞がなくても人物の感情を伝えていきます。
トムの記憶の中には、友人たちと過ごした青春の瞬間から、イザベラと愛を分かち合った時間まで、様々な思い出が詰まっています。幸せだった瞬間が繋がるほどにトムが歩んできた人生の一ページが繰り広げられますが、記憶はやがて混ざり合い、流れは途切れてしまいます。過去の幸福と現在の混乱が交差し、記憶を失っていくトムの痛みがより鮮明に浮かび上がります。
『ネイチャー・オブ・フォゲッティング』は認知症という題材を扱っていますが、物語が伝える感情は、誰もが共感できる記憶と郷愁に触れています。時間が経つにつれて薄れていく瞬間、二度と戻れない過去、そして忘れたくない人々。トムが記憶を繋ぎ止めようともがく姿は、観客一人ひとりの大切な瞬間を振り返らせてくれます。

台詞なしで動きと音楽によって物語を伝える作品であるため、場面を具体的に理解しようとするよりも、俳優たちの表現に身を任せて流れを受け入れることが、この作品を楽しむ方法です。馴染み深い小道具と繊細な動き、ライブ音楽が作り出す場面が積み重なり、一人の人生を温かく描き出します。
記憶はいつまでも鮮明に残っているとは限りません。しかし、記憶が薄れたからといって、その瞬間が持つ意味まで消えてしまうわけではありません。歩んできた記憶が今日の自分を作ったように、今のこの瞬間もいつか懐かしく思う記憶として残るはずです。本作は、今そばにいる人たちと過ごす時間を振り返らせ、今日の幸せを逃さないようにというメッセージを伝えています。
なお、演劇『ネイチャー・オブ・フォゲッティング』は、来る11月29日まで世宗Sシアターにて上演されます。
/ 写真: (株)演劇列伝
記憶という儚い存在を身体表現で描き出す本作は、観る者の心に深い余韻を残します。当たり前だと思っていた日常の風景や大切な人との時間が、どれほどかけがえのないものか改めて考えさせられますね。今この瞬間を大切に生きようという温かいメッセージが、多くの観客の心に届くことを願っています。

